「楽園の果てで」:第2話









まるで新しい言葉を知ってそれが消えて逝ってしまうのを恐れる小さな子供のように、
繰り返し繰り返し今聞いた言葉を反芻する、刻み込むように、毀れ落ちないように。




―――サービス…。




それが彼の名前だった、今し方目の前にいる黒髪の男がそう言った。
その男はそんなジャンの様子を気に留めるでもなく淀んだ灰色の廊下を大股で歩いていく、半ば上の空だったジャンはその間に出来てしまった彼との距離に気がつくと慌てて彼に追い着いた。
コツコツという一定のリズムを刻む跫音と早くなったかと思うとまた遅くなったりと、正確さを欠く跫音とはそうして教室に辿り着く間ひたすらそれを無人の廊下に響かせて行った。




丁度窓際の一番後ろの席だった。
周りの喧騒の中にあって彼の周りだけは酷く静かだった、彼はそうして机に肘をついて誰と関わるでもなく一人窓の外を流れる9月の高くぼんやりとした雲を眺めているようだった。
やがて彼の隣の席に人影を視るとようやく思い出したかのように視線を移しその人物に話しかけた。


「…遅かったな、高松。」


「ええ、まったく初日からこんな雑用をさせられるとは思いませんでしたよ。それで…何かありましたか?」


「特に何も無かったよ、つまらない、取るに足らない催しさ。一人づつ自己紹介して学園生活における意義やら理念とやらを延々と聞かされただけだ。途中から聞くのも飽きたよ。」


「そうですか、なら私の静かな読書時間も案外有意義だったかもしれないですね。」


「かもね。  ……………ところで。」


サービスは先刻から自分の前の席に座って惚けた様に此方を視ている人物に気づいて切り出した、実際教室の中ではサービスを遠巻きに羨望や畏敬の念で見詰めるだけの者が大半で、高松を除けばそうして彼の間近に迫りそうする者など居なかったので、その姿は酷く浮き立って映った。


「さっきから僕の顔をジロジロ見てるこいつは何だい?」


「さぁ、私に聞かれても困ります。」


「初めましてサービス、俺はジャン。」


その言葉を鮮やかに無視してサービスはまた高松に問い返す。


「何か喋ってるぞ。」


「そのようですね、どうやら貴方に話し掛けてるみたいですよ、相手してやったらどうです。」


「宜しく。」


そう言ってジャンは右手を差し出したがまたしても反応は無かった。


「何で僕が相手しなくちゃならないんだ。お前があしらえよ。」


「私だってイヤですよ、ほら手出してますよ。握手して欲しいんじゃないんですか。してやったらどうです、泣きそうな目してますよ。」


今までサービスには高松を除けば一族以外の同年代の友人など皆無だった、彼には双子の兄があったし、ましてやその美貌や青の一族として備わった覇気などで大抵の人間は話し掛けることすら躊躇ってしまう、或いは媚び諂って甘い言葉で近づいて来るかが常だった、そのためこうした唐突な切欠自体酷く希なものだった。
実際の所サービス自身こんな時どうしていいのか分からず途惑っていた、そんなサービスの途惑いを高松はいとも容易く見透かしていた。
高松自身人好きのする性格ではなかったが、それでも、まるで温室の花を眺めるような憐憫を湛えた気持ちで時折この敬愛する恩師の愛弟を見るのだった。


視界の隅に入る健康的に日焼けした手、視線を徐々に移すとその上に少し困ったような笑顔があった。
何故だかその顔を見た瞬間、サービスの心に安堵が広がった、その感情が何所からやって来るものかは彼にも分からなかったが不思議と戸惑いと疑念はすっと翳を潜めたのだった。
自然に自分も右手を差し出していた、ゆっくりと、距離を確かめるように、その黒曜石の瞳に吸込まれそうな錯覚さえ覚えながら…。


指が触れる、温度を感じる、確かな感触で包み込まれる……。


その刹那、サービスの体をひとつの暗示、或いは警告のようなものが駆巡った。
酷く右目が疼き、瞼の裏を閃光が行き交った、まるで右目が悲鳴を上げているかのように耳鳴りがして、眸が明滅したかと思うと鈍く痛みを訴え始めた。
気付くとサービスの右目からは一条の涙が零れ落ちていた。


「え?」


周りのざわめきにようやく自分が涙を流している事を自覚する。
今まで遠巻きに事を見守っていた群集も一斉に色めき立ち、辺りは騒然となった。


「サービス!どうしたんですか…ちょっと、ジャン、あんた一体何したんです!」


友の声が酷く遠くに聞こえる。
それでもサービスは凝然とジャンの手を握り締めたままで、その瞳からやはり眼を逸らせないで居るのだった、………その手は何所までも温かで……。









―――此方をじっと見据える無垢な青色の瞳、そして涙と、握り締められた手、そしてその眸に映り込む浅ましい自分の姿。
ただそれだけだった、其処にあるもの。
けれども全てを覆い去来するこの大いなる感情、自分には無い筈の感情…否、あってはならない、持ち得ないはずの感情、とでも呼ぶべきものだった。
それはジャンにとって目も眩むほどに甘美であったが同時に吐き気を催す酷い苦痛でもあった…、ついに耐え切れなくなりその視線から逃れると、一呼吸置いて莞爾とした笑みを造りサービスを心配したように声を掛け謝る。




大丈夫
これでいい
上手くやってみせる
大丈夫
一時の気の迷いなど…
気にするな
そう、ありったけの綺語で覆い尽くせ
大丈夫、それが使命だ
……………………
……………………
……………………
……………………
痛い
痛い
とても痛い
何故だろう
不思議だ
とても痛い
酷く痛い…
秘石よ、この痛みは一体何なのですか?
私は知らない
教えて下さい、身体が轢き千切られそうだ
痛い
痛い……






こうして出会いはほんの些細な事件に縁取られて生まれた。
そしてこの少しの瑣末事は後にサービスの兄達に次第に伝わる事となった。
それは全ての始まり…、
或いは長く、永遠に続くかと思われた幸福な虚栄の世界が静かに架空の扉を開いた瞬間だったのかもしれなかった。
































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