<terraへ還れ>







――帰れ、還れ、あの星へ。

忘却のかなた。目も眩むような時間と、舟。
変わり映えしない、着々と変わる窓辺。
愛するものを捨てて、
遠くへ、遠くへ来たのだ。
手を伸ばしても、後悔さえ届かぬ果てへ。

命がまわる、まわる。木は海になり、火は土になる。
塵がヒトになり、呼吸は空気になる。
 素晴らしい星。全てが満ちて、循環する。
 命の環から外れるものはなく、皆がうねる奔流のように。
 無駄なものはなにひとつなく、
 おそらく全てのものはひとつから出来ていて、
 それは不変の価値。大きくも、小さくもならず、そしてまわる。
 そこに、君はいるだろう。

(誰も知らない、トネリコの下に、)
(ひとりの躯が在っただろう。)
 (名もなき花が、囁き掛ければ、)
 (さびしい思いはしないだろう。)

わずらわしい器を捨てて、
枷も、さだめからも放たれて、
生まれた時のように、なんとも自由に、
 あの星を飛び回っているのだろう。
だから、帰れ、還れ。
君の呼ぶ、遠い星。失われた聖域、われらの母星へ。



飽きることなくそうしていた。実際、どんな時間が経っても、飽きることはなかった。馬鹿のように黙りこくったまま、上手く口も回らなくて、時折、握り締めた手の指を一本一本解いたり、また包んだり、そんな意味のない動作をしたりして、だけれどほとんど視線を合わせたまま、そうしたままだった。
結局彼の方が沈黙を嫌って、口を開いた。

「…そんな顔をするな。別に今すぐ死ぬわけじゃない。…だからと言って、遠い未来のことでもないが。」

 そうしているのは、最早日の単位も越しているぐらいで、途中誰か訪問客が来たり、騒がしくなり、口論なども起こって、だけれど日が暮れるとこうして静まり返る。日暮れの色は、まるで誰かが仕組んだかのように侘しい。声を出すのも憚られるような。
 ヒトというのは、どう足掻いても、無理に命を引き伸ばすことは出来ないし、たとえそれが出来たとしても、巡る命の環から投げ出されるだけで、存在理由を与えられた時からそういうモノであると、あるべき環から弾き出される孤独感とは、少し、わかりにくい。
 代わりに、そういうモノは永遠の独りを貰える。それは、気付かなければ、決して苦しいものでもない。良い方にも働く。ただ、気付いたその痛みは、他の何にも喩えられない痛みなのだ。

 これも因果か、血の持つさだめか。彼はいつかそう言った。
 彼が普通のヒトより早く還るのは、発端は多分、片目を失ったことだった。普通のヒトは、片目を失っても生きていけるという。だけれど彼は、普通のヒトではなかった。
 結局彼は自分の血から逃れられなかったわけで、彼の持つヒトを超えた不可思議な力は、片目を失っても衰えるばかりか、コントロールしてきたものを失ったせいで、命を蝕んだ。その過程は非常に密やかに、静かに、じわりじわりと進められたので、彼も気付かなかったし、誰も気付かなかった。

「…お前は、やっぱり、“還って”しまうんだろうな。」
「“帰る”も何も、もういる場所はここしかないだろう。」
「……。
 俺は、我侭で、だからひとりでいられない。ここにいるのだって、お前がいるからだ。お前がいないと、駄目だ。」
「何だ、お前がそんなに甘えん坊だとは知らなかったな。」
「俺は帰れない。還れない。俺は確実にこの星の生み出したものではなくて、生産的ではないし、母もいないし、甘えるものはない。
 ただ、こんな想いや、なみだを生むのはお前だし、俺の生み出せる中で一番良いものだし、綺麗なものだろうから、お前に甘える権利はある。」
「まったくお前は馬鹿な癖して、高尚な私にも理解出来ないような意味不明な言葉を言うな。つまりこういうことか?母のいないお前のなみだや想いとやらに対して、私がママだと?」
「……。」
「仕方がないな、ほら、おいで、坊や。」

どんな言葉も、彼の口から発音されれば、なんの壁もなく体の奥まで入る。彼の手に促されるように、ベッドに横たわる体の上に上半身を伏せた。痩せていて弾力がない。母親の柔らかさとは無縁の骨ばったそれだが、温かい。生きている。
だけれどそれも、そのうち、近いうちに、消えてなくなる。いや、そうではない。冷めて、腐敗して、還り、違うものになる。だけれど彼というかたちはなくなるので、母の意味を与えられた誰より愛するものを失う。耐えられないし、怖い。今だけを生きていられたら良いのに。彼は過去のものにならず、不確定な予測に痛みを感じることもない。
 彼の手の平が頭を撫でる。子どもを慈しむように、愛するものを慰めるように。いつかはそれも生産性を失う。全ては彼がいなくなることに繋がって。

「…そんなに寂しいなら、私にさっさと“あれ”を使えば良いだろう。
 知っているよ、お前が、私に隠れてつくっていたことも、もう成し遂げたことも。」

 彼は片目で多くを見る。時に、死角に惑わされ長い時間を憎しみに費やしたこともあったが、彼はもう過ちを犯すことはないだろうし、真実を、一直線に見つけるだけの力があった。
 …だけれど彼のそんな言葉は、手放しで喜べることではないぐらい、わかっている。馬鹿だと言われても、たとえヒトというものがまだ未知のものだとしても、それでもそれぐらいわからないわけではない。何より、そうしないのは、わけもわからぬほど胸が痛むからだった。

「…お前を、…お前を愛しているから、使えない。」

 創造主に首を垂れるように。厳かな夕暮れが部屋を照らした。彼は、裁く者のように、表情の見えない頭を見ていた。

「本当は、今すぐあれを使って、お前を連れ去ってみたい。
 でも、俺は寂しがりで、我侭だが、何より臆病だから、お前の命を引き延ばして、摂理に背いて、痛みを与えるのが怖い。ヒトは普遍的に終わりを迎えるだろう?お前や、お前のことを想う皆も、結局はそうして生き抜いてしまうことが、ヒトとしての仕合せだと思ってるはずだ。
 俺にはそれは良くわからない。ヒトの言う死というものが、いまいちぱっとしない。だから、命を引き延ばすなんて造作がないなんて考えるんだろうな。俺はお前に傍にいて欲しいし、お前しかいないから、お前を抱きしめて、永遠にその一瞬が続くことばかり考える。お前のことばかり考えていれば良いし、他のことはどうでも良い。なんでも投げ出せる。惜しくない。自分勝手だ。」

 まだ言葉を覚えたての子どものように、上手く口がまわらないが、そんなふうにまくしたてると、悪いことをしたあとの罪悪感の陰にある爽快な感じが、すっと胸や腹を通って行った。
 だけれどそれでは駄目だった。後悔するかもしれない。胸が、痛い。

「…俺は、お前の知らないことをひとつだけ知ってる。
 命の環に弾き出された者の、孤独の痛み。これほどの苦しみはない。全てが移り変わってゆく中で、俺だけが置き去りにされる。俺は、お前に、そんな痛みを…与えたくない。
 だけど、傍にいて欲しい。永遠が欲しい。
 頭が半分ずつ千切れそうだ。どうしたら良いのかわからない。迷ってばかりだ。
 でも、お前が仕合せなら、それが一番良い。お前が仕合せなら、俺は我慢する。…だから、どうしたらお前は仕合せか、教えてくれ。」

 それが、散々に悩んだ答え。彼がもうすぐ終わると知って、必死に求めた答え。
 自分には彼しかいないが、彼には自分だけじゃない。彼を愛するものはたくさんいるし、それらは最大限の愛情を持って、彼を包み込んでいる。
 彼を見つめていると、いい知れぬ疎外感があった。そこにいてはいけないような気がした。
 ただ、自分の何より愛するものが、皆に愛されているのを見るのは好きだった。
 彼らから、彼を奪いたいと思った。
 彼らから、彼を奪ってはならないと思った。
 苦しくて、悔しくて、何も告げずに“それ”を作ったのは、彼を連れ去りたいという自分の為。…でもそれは、最終的に、彼を愛する自分に負けた。彼を愛していた。何よりも、愛していた。

「…私は、」

 彼が、口を開いた。零れた声は、鈴のように、印象的に鼓膜を刺激した。

「私には、お前の言うことは、良くわからない。私はお前ほど生きたわけではないし、お前が知っていることを私は知らない。でも反対に、お前の知らないことを私は知っているだろう。
 …一瞬の命のきらめきや、それが燃え尽きる時の涙の出るほど美しい色を、お前が思っているほど、ヒトは気にしていないよ。わざわざ考えなくとも、ずっと、ずっと鎖のように繋がれてきた本能がそれを知っているからね。
 それと同じように、私には、自覚しないほど遥か太古の記憶もあるし、多分、未来を知る力だってある。お前はそれをひとりで生きてきたと思っているだろうが、私だって、何代も、何代もかけて、同じ道を歩んできた。過去に生きた全てのヒトが私だし、これから生きる全てのヒトが、私だ。私は、お前が生きている限り、お前と一緒にいるだろうし、お前が私を忘れなければ、全てに、私を感じるはずだよ。
 そんなことよりも、今私が望むのは、…お前が、ただ、そこにいてくれることだ。」

 彼の声は魔法だ。
 もう、全てがどうでも良くなるほど、温かくて、心地よくて、淀みない。彼の指先にキスをした。彼が、繋がれた手に少しだけ力を込めた。

「傍にいて、こんな風に、色んな話をしよう。
 時には、話をしないで、寄り添うだけでもいい。
 テレビをつけて、なんともないつまらない番組を見て笑おう。
 誰も通らないような道を、馬鹿みたいなスピードでドライブしよう。
 天気が良ければ、散歩でもしよう。…その日、私の具合が良ければね。
 雨が降ったら、その音を子守唄代わりにして、丸まって一緒に眠ろう。
 真冬に、思い立って、花火をしたりしよう。
 たった一本の缶ビールを賭けて、本気で争ったりしよう。
 喧嘩もしよう。
 好き勝手に、明日を語ろう。
 …どれも、私たちが確かにしていたことだよ。
 私も、お前も、遠い昔に置いてきぼりにしてしまったこと。」
「…まだ、帰れるよ。」
「そう、まだ、帰れる。
 …お前が、二度と離れてしまわなければ。…お前がいれば、帰れる。いつだって。」

 そして、彼は呟いた。「それだけで、私はこの上もなく、仕合せだ。」



 でも彼は還ってしまった。
 ほんの少し目を離した時に、別れも言わず、還ってしまった。
 皆が愛するものの喪失を嘆き、すすり泣く中、最後の我侭をと、彼を連れ去った。何をしたいわけではなかった。還ってしまえば、あれだって、もう使えない。ひんやりと冷えた彼の入っていたモノを、大事に、ガラスを扱うように大事に、そっと運んだ。
 彼を、一本の木の下に埋めた。それは、多分他に誰も知らない。どうして自分がそんなことをするかは、なんとなくわかっていた。でもそれは、言葉にするのももどかしいので、彼が無事還って、自由にこの星を巡れば良いと、思いもしないようなことを願った。
 彼は還った。でも、彼を失ったからといって、彼を手放して生きていけるはずはなかった。どこか遠くに。彼のことも薄れてしまうくらい遠くに行けば、何も知らなかった頃に戻って、自分が何の為に生きて来たのか、未来はどんな風に分かれているのか、疑問さえ持たずに生きていけるのかもしれない。
 彼との別離を決意した。
 彼が仕合せならと、傍にいると約束したことも、守ってゆくには、あまりにも辛い。
 彼を愛している。それは、過去のことになり、そこに愛が存在していたことを知るのは自分ひとりになるだろう。
 何故なら、永遠に、永遠に、
 あまりにも残酷に、時は流れてゆくだけなのだ。

 だから、舟に乗った。遠い場所へ行こう。時間さえも狂わせるほど。
 そこには新しい母星があって、彼を愛した一瞬を忘れる方法だってあるだろう。
 そこに着いたら、今度こそ、永遠に共にいてくれるものを造るのだ。

 彼を愛した想いを忘れ、だけれど記憶の奥底でそれは確かに生き続け、
 時に理由もなく、痛みを伴って表れようとするだろう。
 そんな時、そんな自分に疑問を持って、
 彼を失う痛みを再経験しないように、
 自分を守る。永遠に生きていかなければならない、自分を守るのだ。


 ――


(時々、不思議に思うのだ。)
(自分の中で、狂おしいほどの、母星への憧れがある。)
(まるで、デジャビュのように、あるいは白昼夢のように、)
(その母星に、かけがえのないものを置き去りにしたような、)
(侘しく、切なく、突き刺さるような痛みを覚える。)
(“それ”は、一本の木の下に眠っていて、)
(時間をかけて土に還り、養分になり、生き物の体内に入り、)
(地や肉や汗になり、水になり、蒸発して、)
(雲になり、雨になり、川を伝って海へと渡る。)
(海から全てのものが生まれた。)
(それは母の元へと帰ったのだ。)
(鮮やかなイメージ。)
(体の細胞ひとつひとつが、忘れまいと刻み込んだイメージ。)

(わたしの母星は、果たしてどこにあるのだろう。)
(わたしは、気付いた時にはもうこの“母星”にいるのだった。)
(多分、長い長い旅をして、どこからかやって来たのだ。)
(それなら、真実の母星はどこにある?)
(失われた母星は、どこにある?)

(君が呼ぶのだ。宇宙の遥か彼方から。)
(途切れ途切れに、しかし明確に。)
(君の声と、それに付随するたましいが、)
(あまりにも美しい、母星の映像を伝えるのだ。)

(帰りたい。)
(……そうだ、帰ればいいではないか。)
(君は待つ。待っていてくれる。)
(今なら、きっとわかるはずだ。)
(永遠不変に、君がそこにいることを。)

(だから、帰ろう。)
(わたしはまだ彼を失ってはいない。)
(帰ろう。帰るのだ。)
(遥かなる地、‐channel five‐へ。)







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